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新たな出発

 先日、中学校時代の同級生が集って、還暦祝いが催された。20歳の時の成人式と60歳の還暦祝い。人生の2つの節目を前にした自分の姿を思い比べる。
 成人式を迎えた時は、1枚のキャンパスを前に、大いなる希望と不安を胸に抱いて、あらゆる色の絵の具を持ちながら、どのような構図を描くかわからないまま立ち続ける自分がいた。40年後の還暦祝いに出席した時は、幸いにして南無妙法蓮華経に出逢い、新たな1枚のキャンパスを用意して、確かな構図と絵の具でこれからの人生を描こうとしている自分に幸せを嚙みしめている。

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願い

 8月6日、9日、15日と、日本では8月に入ると、「死」について多くの
人間が考える時をもつ。昨日(11日)の公明新聞に〝「死」という発明”
という題で、静岡大学農学部教授の稲垣栄洋氏の言葉が載っていました。そ
の文面は、氏の専門性を背景とし、豊かな品格を感じるものである。「死」
は人間にとって最大のテーマである故に、古今東西の識者、哲学者、宗教家
は、それぞれに空間的色彩を放っている。生きとし生ける全ての人間は、そ
の生涯で1度はこのテーマを目の前にして、納得のいく答えを求める。死ぬ前
の苦しみは、死への苦しみではなく、生きている故の苦しみである。「死に
たくない」と叫ぶ死への苦悩は、自分という存在が死という現象の後に存在
しなくなり、その存在が2度と現れないまま時間が永遠に続くという事への
恐怖感、喪失感、虚無感を基とする。「生」と「死」というテーマに対し、
釈尊は法華経において、生命の永遠性を説き明かし、日蓮大聖人は御書にお
いて、さらに明確に言い表して下さっている。近年では戸田先生が平易に言
い表して下さった。その真理は明快である。しかし、問題はその真理を万人
が理解し、信じ、納得できるかである。「生命は永遠である」と言われても、
それを日常的に確かめることはできない。目に見えず、形ないものを只思考
の世界で理解するには、安心感は得られない。この真理を一点の曇りなく理
解するには、自分の〝生命”が身体という器から飛び出し、大宇宙の〝生命”
と共鳴し一体となるしかない。頭脳による知の世界から飛び出し、〝生命”
という<甚深無量>の世界を開くしかないのである。その方法は。これが
人間の最大の課題である。日蓮大聖人が、その答えを表わして下さっている。
御書に触れていくと、その言葉が目の前で立ち止まる。しかし、言葉は平易
であるが難解である。なぜなら、その一文,一語が<甚深無量>の広がりを
持つからである。その世界の扉のどこか1つでも開けたい。

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若さの秘訣

〝 我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて ”    P557

 何人たりとも妙法蓮華経の当体であり、その活力は、溢れ出ようとする時、己心に障害となるものを置かず、あるいは蓋をしなければ、とどめなく体内から体外へと溢れ出す。その時、自分の目の前にある障害に対し、存在してくれている嬉しさを嚙みしめることができる。なぜなら、それを打破して前に進もうとする活力に身を包み、目の前に迎える1秒1秒の時間が、心身をともに甘露に満たすからである。故に行動は活力に満ち、いきいきとし、その表情に得も言われぬ魅力が溢れ、引きつけられるのである

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とかし・はじける

心の師とは・なるとも心を師とせざれ
                 御書p1088
 この御文について諸先輩方が教えてくださる時、以下の意味で教えてくださいます。
言葉の意味は、「心の師とはなっても、自分の心を師としてはならない」ということです。後半の言葉の「自分の心を師とする」とは、縁によって揺れ動く自分の心に振り回されてしまうことですから、「自分の心を師としてはならない」とは、生まれては消えていく自分の心(ここではマイナスの方向に働く心の意味合いが大きいでしょう)に揺れ動いたり、縛られたりしないようにということでしょう。
 次に、前半の「心の師となる」については、
 1)人々の心の師となる
 2)心を師とするのではなく、法を師とする。すなわち、「ご本尊根本」「御書根本」   
  の生き方をしていく   
   
の意味でお話してくださいます。その時は、確かにそうだなと思うのですが、どこかしっくりこない思いにとらわれてしまいます。それはどうしてかというと、前半の文と後半の文が、それぞれ独立したものという観点からみると、そのように考えられるのですが、一文として貫いて思う時、私は、絶えず生まれては消えていく心にとらわれないようにするということを、表と裏の方向から述べているように思られるのです。つまり、「自分の心を師としないで、その心の師となる」には、どうするのかという意味を投げかけているように感じられます。その答えを見つけようとする時、やはり御書の中に入っていかなくてはなりません。人間が存在する時、身体と心を有します。その心は、十界を背景として生まれてきます。マイナス方向では、怨み・妬み・怒り等が生まれ、プラス方向では、喜び・楽しさ・慈しみ等が生まれてきます。その中で、特にマイナス面の心をどうコントロールするかが、人間にとって最大のテーマの1つです。人々は、道徳心や倫理観、哲学や法律といった外側からコントロールしようとします。しかし、それでは完全にコントロールできないことを、人間の歴史が示しています。なぜならそれは、例えば、川の流れをダムでコントロールしようとする時、確かにダムの容量の範囲内においては可能ですけれど、一旦その容量を超える増水があった時、ダムは決壊してしまうように、心のエネルギーはそれをコントロールしようとする意志の力を超えていくからです。どのような聖人君子でも、さらに仏でも瞬間瞬間に生まれてくる十界の心を外から抑え込むことは不可能ですよと言っています。いやむしろ、抑え込もうとすること自体が不自然だと言っています。それでは、瞬間瞬間に生まれてくる心を外から抑え込まないで、自然に発露させ、なお且つその心をコントロールする方法はというと、「生命」を開くことだと教えてくださいます。「生命」は心よりはるかに広い。その広い「生命」という大海に、心のマイナスのエネルギーはとかしこみ、プラスのエネルギーははじけさせていくのである。そう思う時、「心の師となる」の「なる」は「開」と見て、〝心の師を開き、心を師としないように"と、私は教えて下さっていると思うのです。     

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法則

南無妙法蓮華経を信じる力の強さが、悦びを溢れさせる。
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人生

法華経を信じる者は、この世にあって、〝信”を貫き通すという”信の道”を歩くのである。
        
                           (法華経の兵法の極意とは)
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知る

”唯佛與佛” (妙法蓮華経 方便品)

人間が人間である限り、どんな天才でも読み明かすことができない言葉です。自身、仏界を開いた時、初めて目の前に進むべき道の存在を知る。


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一芯

人間の身体と心と生命の一芯で、〝南無妙法蓮華経日蓮”が光を放つ。
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平等と不平等

 人間として生まれて生長していく時、人間の世界は多くの不平等や不公平に満ちていることに気づく。そのなかには、誰人もどうすることもできないものがある。
 その第1は、どこに生まれるかである。大きくは、日本に生まれるのか。ヨーロッパアフリカに生まれるのか。また、平和な国に生まれるのか。生死に係わる紛争を行っている国に生まれるのか。小さくは裕福な家に生まれるのか。貧しい家に生まれるのか。この様に、どういう環境の下に生まれるのかは生まれる本人は、知らずに生まれてくる。
次に、生まれてくる本人に関してみると、その性別、容姿、才能等に相違がある。男として生まれてくるのか女として生まれてくるのかによって、その後の人生の歩みに大きな隔たりがある。容姿や才能にしてもしかりである。例えば、ファッションモデルという職業においては、その容姿が第1条件である。才能においても、天賦の才能は厳然として存在する。特に、スポーツにおいては、本人の努力にもよるが、トップ選手と一般の競技者との才能の差は感じられる。卓球という競技において、現在、水谷隼選手は日本一を決する全日本選手権という大会で11年連続決勝進出を果たし、その内9度優勝している。日本全国で、何万人、何十万人という人達が卓球という競技で日々努力しているけれども、10年以上もトップの座に輝いている姿を見ていると、そこに天賦の才能の存在を認めざるを得ない。このように、確かに生まれたときにその容姿、才能、環境等の良し悪しという基準は存在するけれど、他方人が生きていく中で他の基準も用意されている。それは、幸福感、生きがい、よろこび等である。これらは、生まれた時の条件とはまた別個のものである。例えば、日本一になった人が幸福で、なれなかった人が不幸で日々過ごしているわけでもない。ファッションモデルになるほどの容姿を持っていたとしても、幸福に包まれて人生を送るかというと、必ずしもそうだと言えないだろうし、モデルになるほどの容姿を持っていなくても、人は人に愛されて幸福な日々を送る。つまり、人が生まれて生きていく中で不平等と思われる条件は存在するけれど、それが全てで絶対的かというと、それ以外にも多くの条件の下で人びとは人生を歩んでいるのである。
さて、これまで人間の不平等を見てきたけれど、では対岸の平等に視点を移してみよう。人間を含むこの大宇宙に存在するすべてのものに平等に与えられているものの中で最大のものは何であろうか。私は、“時間”であると思う。それは、1時間とか1日とかの長さではなく、今という瞬間の時を指す。一瞬一瞬の時の重さや輝きは、誰人に対しても同等であろう。困難に遭遇している時も、喜びの最中も、病気の時も、健康でいる時も、瞬間の時自体は、一方が軽くて一方が重いという事はあり得ない。今という瞬間の時自体は、誰人に対しても平等に輝いている。そして、その輝きに反応してその人がどれ位輝くかは、それぞれの人間に与えられた平等の権利であろう。ここに、誕生した時に存在する不平等なものを一生の間に見事乗り越えていく力の源が存在する。宗教の存在意義は、この時の輝きに呼応して一人の人間の内面の輝きを最大限にするための法則や方法を明示することにあると思う。仏の説く法華経、末法においては日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」においては明確に提示しているがゆえに、諸宗教の王たる位置に立つと実感する所以である。
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覚悟

仏法の真実に触れようとすれば、苦というトンネルを通らないといけないのだろう。
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