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法則

南無妙法蓮華経を信じる力の強さが、悦びを溢れさせる。
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人生

法華経を信じる者は、この世にあって、〝信”を貫き通すという”信の道”を歩くのである。
        
                           (法華経の兵法の極意とは)
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知る

”唯佛與佛” (妙法蓮華経 方便品)

人間が人間である限り、どんな天才でも読み明かすことができない言葉です。自身、仏界を開いた時、初めて目の前に進むべき道の存在を知る。


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一芯

人間の身体と心と生命の一芯で、〝南無妙法蓮華経日蓮”が光を放つ。
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平等と不平等

 人間として生まれて生長していく時、人間の世界は多くの不平等や不公平に満ちていることに気づく。そのなかには、誰人もどうすることもできないものがある。
 その第1は、どこに生まれるかである。大きくは、日本に生まれるのか。ヨーロッパアフリカに生まれるのか。また、平和な国に生まれるのか。生死に係わる紛争を行っている国に生まれるのか。小さくは裕福な家に生まれるのか。貧しい家に生まれるのか。この様に、どういう環境の下に生まれるのかは生まれる本人は、知らずに生まれてくる。
次に、生まれてくる本人に関してみると、その性別、容姿、才能等に相違がある。男として生まれてくるのか女として生まれてくるのかによって、その後の人生の歩みに大きな隔たりがある。容姿や才能にしてもしかりである。例えば、ファッションモデルという職業においては、その容姿が第1条件である。才能においても、天賦の才能は厳然として存在する。特に、スポーツにおいては、本人の努力にもよるが、トップ選手と一般の競技者との才能の差は感じられる。卓球という競技において、現在、水谷隼選手は日本一を決する全日本選手権という大会で11年連続決勝進出を果たし、その内9度優勝している。日本全国で、何万人、何十万人という人達が卓球という競技で日々努力しているけれども、10年以上もトップの座に輝いている姿を見ていると、そこに天賦の才能の存在を認めざるを得ない。このように、確かに生まれたときにその容姿、才能、環境等の良し悪しという基準は存在するけれど、他方人が生きていく中で他の基準も用意されている。それは、幸福感、生きがい、よろこび等である。これらは、生まれた時の条件とはまた別個のものである。例えば、日本一になった人が幸福で、なれなかった人が不幸で日々過ごしているわけでもない。ファッションモデルになるほどの容姿を持っていたとしても、幸福に包まれて人生を送るかというと、必ずしもそうだと言えないだろうし、モデルになるほどの容姿を持っていなくても、人は人に愛されて幸福な日々を送る。つまり、人が生まれて生きていく中で不平等と思われる条件は存在するけれど、それが全てで絶対的かというと、それ以外にも多くの条件の下で人びとは人生を歩んでいるのである。
さて、これまで人間の不平等を見てきたけれど、では対岸の平等に視点を移してみよう。人間を含むこの大宇宙に存在するすべてのものに平等に与えられているものの中で最大のものは何であろうか。私は、“時間”であると思う。それは、1時間とか1日とかの長さではなく、今という瞬間の時を指す。一瞬一瞬の時の重さや輝きは、誰人に対しても同等であろう。困難に遭遇している時も、喜びの最中も、病気の時も、健康でいる時も、瞬間の時自体は、一方が軽くて一方が重いという事はあり得ない。今という瞬間の時自体は、誰人に対しても平等に輝いている。そして、その輝きに反応してその人がどれ位輝くかは、それぞれの人間に与えられた平等の権利であろう。ここに、誕生した時に存在する不平等なものを一生の間に見事乗り越えていく力の源が存在する。宗教の存在意義は、この時の輝きに呼応して一人の人間の内面の輝きを最大限にするための法則や方法を明示することにあると思う。仏の説く法華経、末法においては日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」においては明確に提示しているがゆえに、諸宗教の王たる位置に立つと実感する所以である。
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覚悟

仏法の真実に触れようとすれば、苦というトンネルを通らないといけないのだろう。
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習う

“先臨終の事を習うて後に他事を習うべし”  (P1404)

 先日上記の文に触れたとき、文の前の“臨終”について考えを述べました。今日は後半にある“他事を習う”について述べたいと思います。最近、テレビ番組で「東京タラレバ娘」というドラマがあります。内容はわからないけれど、この題名からあることを想像しました。それは、「タラレバ人生」と「カラノハ人生」という事についてです。前者は、“もし~していタラ、こうなっていたのに”とか“もし~していレバ、こうならずにすんだのに”という考え方です。後者は、“~していたカラ、こうなったんだ”とか“~したノハ、こういう訳があるんだ”という考え方です。この両者をいくつかの視点から比較してどういう特徴があるか考えてみました。
 初めに、心の動きという観点から考えてみました。前者の「タラレバ人生」は、後悔という心の作用であり、やがて愚痴が始まります。或いは、周りを恨み、さらに周りの人たちに嫉妬する。後者の「カラノハ人生」には、“~していたカラ、こうなったんだ”という現実を直視する心の働きがあります。その因果関係をしっかり見つめ、原因と結果の間にある法則やシステムのルールに考えを及ぼし、事実を知ろうと心をくだきます。前者は、感情が多くを占め、後者は、思考が重きをおいています。この思考から反省という形が生まれ、さらに反省からは“次はこうしよう”という新たな一歩を生みます。つまり、事実を見つめることによって、(+)の方向にも(-)の方向にもその因果関係を知り、(時に反省をして)未来への一歩を踏み出すのです。これを水の流れという中で心のあり方をみてみると、前者はいろいろな方向から流れてくる水が一か所に留まってしまう感じです。後者は、水が流れ続けるように、サイクルを描きながら心が流れていきます。水は、一か所に留まるとやがてよどんでしまい、流れ続ける時は、きれいでみずみずしい特徴を表わしていきます。では、この2つの人生のうちどちらを選ぶかというと、人間は前者を選びがちになります。なぜなら、原因と結果を自分の外に求めることの方が楽だからです。後者において、事実に向き合うという事は、時に自分をまな板の上にのせてメスを入れなければなりません。そこには、大きな苦痛を伴います。その生き方には、その苦痛を覚悟してメスを入れる勇気と、その苦痛に耐える忍耐力が必要となります。自分が自分の心や行動にメスを入れる時の苦痛ほど、痛いものはありません。体の痛みは時に休むこともありますが、この苦痛は一瞬も休むことなく、これから逃れることができないからです。しかし、この苦痛の中にこそ次の瞬間の(-)から(+)へと変化していく大いなるよろこびが隠されているのです。まるで女性が子供を産む時、最初に苦痛を味わい、次の瞬間生まれてきた子供への何物にも変えられないよろこびに満たされるように。
 「習う」には、また仏教でいう「悟る」という中には、大いなるよろこびが内包されているのです。
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みずみずしく

“先臨終の事を習うて後に他事を習うべし”  (P1404)
 この御書の前に立つ時、一番先に考えるのは、臨終という言葉である。国語辞典によるとその意味は、(1)息を引き取るまぎわ、(2)死ぬこととある。(2)の意味のなかで、加えて生物という範囲で捉えると、生物の死ということになる。その死という姿や意味から逃げずに見つめることによって、対岸にある生を見つめその意味が浮かび上がってくる。この生と死を見つめる事によって、人は自分の生ある間の生き方を構築しようとするであろうし、また自分の生を見つめる時は、周りの生を見つめようとするであろうし、さらに歩を進めて目に映る生死だけでなく、「生命」の不思議に視点を広げようとするだろう。と同時に、それは、物事の存在に関連して視点が広がっていくのである。
 次に、(1)の意味の中で、加えて「南無妙法蓮華経」の骨髄である一生成仏の考えを合わせて捉えていく時、臨終の中に、死という形だけでなく別の姿を見ることができる。それは、終焉と誕生である。終わるという瞬間は、同時に次のものが生まれる瞬間でもある。では、何が終わり何が始まるのか。それは、自分の周りの死の姿から死というものを描き出しているそれまでの自分から、仏界を開き十界があらわれる世界に身をおいて、単に現象の生死のみにとらわれない大宇宙を貫く生死の姿を感じて生きる瞬間が始まるのである。仏教で述べる九界の世界にとどまっている時と、仏界を開き十界があらわれた世界では、全てのものが様変わりする。周りの木や花や草などは、私の生命に語りかけてその息吹はみずみずしく、はじけている。側に建つ家や塀や電柱なども、踊るようにして語りかける。時は、一時間とか一日とかの長さより、今という瞬間をより強く感じるようになり、感極まった時は、瞬間の時の中に永遠という思いが突き抜けていく。大安心の世界に身を置くようになり、それは人間が誕生するとき母の体内にいるような感覚である。戸田先生は、仏界を開いた時の幸福感を絶対的幸福とおっしゃた。私は、それを相対か絶対かという範疇のものではなく、大宇宙の生命体にとけ込み、大宇宙の生命体の胎内で包み込まれている大安心感の下に訪れる幸福感として感じている。これが成仏の姿であるかどうかは、私はわからないけれど、今言い表していることが、間違いだとしたら、後日師のもとに進んだ時、日蓮大聖人のお叱りをうけるのみである。
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発する

私は、最近世にいう五十肩という症状を発病した。日常的に肩や腕に痛みを覚え、腕は肩から上がらず、少しでも脇から後ろにそらそうとすると激痛が走る。何かの拍子に急に脇にあるものを取ろうとする時の痛みには、うずくまって涙をこらえる程である。病院の医師によると、日常生活において限られた動作しかしなくなると、次第に関節や筋肉等は固まってくるという。そのため、この五十肩を治すには、薬の服用ではなく、狭くなってきた動作域を広げる運動で解決するしかないと言われた。このことを踏まえて、私はこれまでの事を振り返ってみた。私は、自分の仕事上身体を動かす運動量は、他の職業の同年代の人たちに比べて、はるかに多いと思っていた。そのため、よく周りの人たちが運動不足と言っているのを、自分は関係ないと思っていた。しかし、それは狭い料簡であったと反省している。確かに、運動量としては多かったかもしれないが、それは狭い範囲の限られた運動であったために、逆にその障害として今体に表れてきたのを自覚している。そして、反省と同時に、これまで体の障害に対して、いろいろな人が大事なことを教えてくれていたのを思い出した。子供スポーツクラブに連れて行った時、そのクラブのコーチは、練習した後には必ず練習中の動作の逆のストレッチをすることを、よく指導していた。その理由は、先の医師の道理と同じく、そのスポーツにはそのスポーツ独自の動作に限られてくるために、その動作と逆のストレッチで筋肉等の回復をはかっておかないと固定化して、ケガをする確率が高くなるという。さらに遡って思い出したのは、若い頃アメリカ留学した時、大学の敷地内にある屋内プールで、よく泳いだことである。それは、その大学のスポーツトレーナーの話しを聞いた後に、環境的にそのプールは一日中一般の学生のために無料で解放されていたからである。そのトレーナーによると、ケガの回復時に限らず、スポーツ選手でも、一般の人の日常的な体のリハビリにおいても、最も適した運動は、水泳であるという。水に浮いて泳ぐときに、人間のなす運動において最もバランスよく、全身を使った運動ができると教えていただいた。しかし、帰国後仕事に就いてからは、若さと仕事を理由に、自分の体への過信の上に人生を過ごしてきた。今体の不調を感じる時、御書にまた1つ教えられる。全てのものに道理や法則があり、物事はそれを基盤として進むのである。新しい事を始める時、物事を広げようとする時は、多大なエネルギーを要し、時に苦痛を伴う。それが1つのパターンとして、形が出来上がってきたとき、楽になり、多くはそこに安住しだす。それは楽であり、快・不快でいうと快の状態であるためである。しかし、その裏では同時に、エネルギーの縮小という自然の力が働きだす。縮小するという力に対抗するには、広げるというエネルギーを発し続けなければならない。「仏」と「魔」を自然界に見る時、「仏」は広げるというエネルギーの(+)の力を表し、「魔」は縮小するというエネルギーの(-)の力を表していると思う。生きるという事は、生命というエネルギーを発し続けることなのであろう。
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見つめる

人間が人間たる所以は、思考することにあると思う。その思考の最大のテーマは、「生死」である。その「生死」の課題の中でも、最初にくるのが「死」についてである。この課題を、人間は普段自分の思考の世界の遥か彼方に追いやっている。なぜなら、この課題を見つめる時は、同時にその恐怖を味わうからである。幼少の時から、私は何度となくこの課題を見つめては,その恐怖に打ちのめされてきた。迫りくる恐怖とは、現象としてのものはたいして問題ではない。例えば、病気で亡くなるとか、事故で亡くなる、あるいは自ら命を絶つなどは、頭の中で描かれるものであるから、若い時ほど、その重さは深刻に迫ってこない。しかし、自分が亡くなった瞬間から、自分という存在がこの世界からなくなること、そしてそれ以降、自分が存在しないという時間が永遠に続いていくということを見つめたとき、体の底から恐怖が沸き上がり、私を奈落の底に引きずり込むのである。その都度、その恐怖を乗り越えるために、確固たる答えを求めるのであるけれど、哲学にも倫理学にも巷の宗教にもその答えはなく、最後に釈尊の「法華経」、日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」にたどり着いたのである。たどり着いて始まった思考は、それまでの終わりとしての「死」の対岸にあった始まりとしての「生」であった。つまり、「生死」のテーマを見つめる時は、単に人間としての形の生死ではなく、自分が人間として誕生する前の時間、人間として始まる誕生から終わりとしての死、そしてその後に続く時間と一連の流れを貫く全体像に対して、納得のいく答えを求める時なのである。釈尊の「法華経」、日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」はこのテーマに対して、遍く「生命」の全体像をを描き出してくれている。そして、最も肝心なことは、その答えをどのような形で納得するかを教えてくださっている。どんなにその答えが正論でも思考の世界にとどまっている時は、湧き上がる死の恐怖からは乗り越えられない。それは、生命の底から湧き上がってくるからであり、それを乗り越えるには、自分の「生命」を開き、「南無妙法蓮華経」の力と一体となって、湧き上がる恐怖という(-)のエネルギーを、自分の「生命」の中にある歓びという(+)のエネルギーの大海に溶かしこむことによって、解決できるのである。答えというものは、自分の「生命」がそうなんだと納得している時ほど、確かな答えはないのではなかろうか。
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