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飛び込む

先日、御書を読むとき、あるいは触れるとき、自己の知に頼らないで、全身全霊余力を残さないで飛び込まないと、答えを得ることができないと言いました。それを少し詳しく考えたいと思います。御書に触れるとき、しなければならない作業があります。第1に、一字の言葉の意味を見つけることです。と同時に、その言葉を含む文の意味も見つけなければなりません。第2に、一字の言葉、一文の答えは、十界の中にそれぞれ存在します。第3に、加えて仏法は人、法の2法を有しますので、この2法の立場で答えを見つけようとしなければなりません。例えば「南無妙法蓮華経」の「南無」について御義口伝の冒頭で教えてくださっているのですが、その中で〝帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり”とあります。この一文に触れようとする時、先ず〝帰する”とはに対する答えを求めると同時に〝迹門不変真如の理に帰するなり”の答えを求めることです。仏の表す言葉は、1つの言葉でもその広さは限りありません。それは、何も描かれていない真っ白な巨大なキャンパスのようなものです。とらえどころがありません。ですから、それに自分の答えという色で形を描いていかなければなりません。次にこの〝帰する”という言葉、〝迹門不変真如の理に帰するなり”の答えは、十界、つまり地獄界から仏界の10の立場の答えがあるということです。地獄界にいる時はどういうことなのか、人界にいる時はどういうことなのかそれぞれに答えがあるのです。加えて仏法は、人、法の2法でこの大宇宙の法則をとらえます。ですから、それは人としてどうなのか、人を含めた大宇宙においてはどうなのか、さらに「南無妙法蓮華経」においてはどうなのかという問いが加わります。この様な作業に必要なエネルギーは、一凡人の私には膨大なものです。そのため、余力を残さないで飛び込まないと、その1つの答えも見い出すこともできません。

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