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生死一大事血脈抄
  総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙     法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり         御書p1337

上記の御書については、よく組織の団結の要諦として説明される。池田先生の小説「新・    人間革命」において

  「自他彼此の心」とは自分は自分、他人は他人というように、自分と他人とを差別す     る、断絶した心である。たとえば、自分の利害ばかり考えて他者を顧みないエゴイズ      ム、無関係を決め込む心、あるいは敵対視、また、己の感情を根本にした生き方といえ     よう。
  皆の心がバラバラに分断された、そんな集団に仏法の血脈が通うことはない。ゆえに     大聖人は、そうした生き方を厳しく戒められたのである。
  また、「水魚の思」とは、切っても切れない同士相互の、密接不可分な関係を、深く     自覚することである。互いに、公布の使命に生きる同志を、なくてはならない尊い存在     として支え合い、敬い合っていくことが、「水魚の思」の姿といえよう。
  また、「異体同心」とは、それぞれの個性、特質を最大限に生かしながら、広宣流布     という大目的に心を合わせて前進していくことである。                    大聖人は、総じては、御自身の生命に流れる血脈は、この「異体同心」の団結のなか     に伝わり 、「広宣流布」の大願に生きる、一人ひとりの生命に脈打つことを明言され     ているのである。                    大白蓮華No.806 p92

と述べられている。しかし、生死一大事の血脈という主題からすると、この文はもっと重    大な意味を持つのである。それは、人間が「仏界」を開くとはどういうことかを表してい    るのである。つまり、
1、自他彼此の心なく
2、水魚の思を成して
3、異体同心にして
南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり
というように、「仏界」を開いた状態を3つの言い表し方で述べられている。私たち人間    は、九界という現実の形と現象の世界で生きている。その中では、自分と他人、自分と木    自分と花等というように、自分と他の物体と区別して感じたり考えたりする。また、空間    においては、こちらとあちらという感覚の中で生きている。それが、「仏界」を開くこと    によって、つまり自分の「生命」を開いて「南無妙法蓮華経」と一体となった時に、この    自他彼此の感覚は薄れていく。例えば、手は1つの物体であり足や頭と違うけれど、普段    は身体全体に溶け込んで、手は手と他と区別して生きていない。魚は水の外に飛び出した    時に、自分と水の区別を知覚するだろうけれど、水の中にいる時は水と自分が一体となっ    ているだろう。私たちが空気と自分を区別して生きていないように。この自分の「生命」    と「南無妙法蓮華経」が一体となったとき、自分と木や草などが「生命」という大きな水    の中で一体となっている状態を「異体同心」と言い表している。このように、「仏界」を    開き、「生命」を開いて、「南無妙法蓮華経」と一体となった時、自他彼此と区別する感    覚は薄れ、「南無妙法蓮華経」の息吹が体の芯から沸き上がり、溢れ出す。これを血脈が    通うという。
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