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「夢」と「寤」

御書並びに釈尊の一代聖教に触れるのに、必ずその基礎となる重要な御書の1つである「三世諸仏総勘文教相廃立」を去年の暮れから読み返している。その御書の中の「夢」と「寤」について触れてみたい。この「夢」と「寤」の対象である世界はどういうものか。
 「夢」と言っている世界は、私たちが存在しているこの現実の世界であり、さらに詳しく言うと「南無妙法蓮華経」で己心の仏界が開かれていない九界の世界を言っている。「寤」とは、その己心の仏界が開かれて十界互具している現実の世界を言っている。即ち、同じ現実の世界に存在している状態でも、仏界が開かれているかいないかによって「夢」と「寤」に分かれるのである。
 では、何故この現実の世界が「夢」と「寤」にわかれるのであるのか。人間は、誕生してから心身ともに成長していく中で、多くの少年少女が思春期を迎えるとき、心の葛藤期を迎える。それまで身につけてきたものが、自分の未来へと歩みを進める上で、盤石の礎とならず、言いようのない大きな不安が心を占めて、苦悩という泉に沈んでいく。ある者は、意識的にせよ無意識的にせよその心の不安に蓋をして、その後の人生を歩み、またある者はその苦悩を真っすぐに見つめ、答えを出せずにその後の人生に幕を降ろしてしまう。多くの人間は、その後の人生を歩むのであるが、それは海の波の上に細い板を浮かべてその上を歩いているようなものである。時にその波が激しく波立つ時、何かすがりつく物を探して、まさに「藁にも縋る」心境で、すがみつく。この時、最も大事なのは、何にすがみついたかである。なぜならこの時、その後の幸・不幸の分かれ道が、ここから始まるからである。ほとんどの哲学・倫理・宗教は、この時間と空間の大宇宙の広さより狭い空間を右往左往していて、その法則や道理は粗雑さが目立ち、この大宇宙の法則や現象、人間の人生の意味など重要な問題を説明し尽していない。何かにすがって一旦はほっとするけれど、その狭さよりあちらこちらで矛盾が生まれ綻びを見せるため、宗教の遍歴が始まる。或いは、無理に自分を変えてその空間の中に押し込めてしまう。もし、すがみつくとしたら日蓮大聖人が説く「南無妙法蓮華経」只1つである。その広さは、この大宇宙を入れてもなお広く、全てにその答えを提示してくれる。波の上に浮かぶ板を歩いている私たちに、波は海というものの1部であり、波の下の海という存在を教えてくれる。その海の中を、己心の仏界を開くことによって一点の曇りなく見通すことができ、波の上をまるで大地を歩くように、大安心感をもって直接歩くようになる。この大安心感をもって波の上を歩いている状態を「寤」といい、波の下の海の存在を知らずして、その上を右往左往しているのを「夢」と言っておられる。そして、ここで最も大事なのは、この仏界を開くという行為は、あくまで個々の人間によってなされるものであり、誰か他人(例えば仏と呼ばれる人によってさえも)が開いてくれるものではないのである。個々の人間が自身の行為として、己心の仏界を開いた時に、初めてこの大安心感を持つのである。

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