So-net無料ブログ作成
検索選択

見つめる

人間が人間たる所以は、思考することにあると思う。その思考の最大のテーマは、「生死」である。その「生死」の課題の中でも、最初にくるのが「死」についてである。この課題を、人間は普段自分の思考の世界の遥か彼方に追いやっている。なぜなら、この課題を見つめる時は、同時にその恐怖を味わうからである。幼少の時から、私は何度となくこの課題を見つめては,その恐怖に打ちのめされてきた。迫りくる恐怖とは、現象としてのものはたいして問題ではない。例えば、病気で亡くなるとか、事故で亡くなる、あるいは自ら命を絶つなどは、頭の中で描かれるものであるから、若い時ほど、その重さは深刻に迫ってこない。しかし、自分が亡くなった瞬間から、自分という存在がこの世界からなくなること、そしてそれ以降、自分が存在しないという時間が永遠に続いていくということを見つめたとき、体の底から恐怖が沸き上がり、私を奈落の底に引きずり込むのである。その都度、その恐怖を乗り越えるために、確固たる答えを求めるのであるけれど、哲学にも倫理学にも巷の宗教にもその答えはなく、最後に釈尊の「法華経」、日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」にたどり着いたのである。たどり着いて始まった思考は、それまでの終わりとしての「死」の対岸にあった始まりとしての「生」であった。つまり、「生死」のテーマを見つめる時は、単に人間としての形の生死ではなく、自分が人間として誕生する前の時間、人間として始まる誕生から終わりとしての死、そしてその後に続く時間と一連の流れを貫く全体像に対して、納得のいく答えを求める時なのである。釈尊の「法華経」、日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」はこのテーマに対して、遍く「生命」の全体像をを描き出してくれている。そして、最も肝心なことは、その答えをどのような形で納得するかを教えてくださっている。どんなにその答えが正論でも思考の世界にとどまっている時は、湧き上がる死の恐怖からは乗り越えられない。それは、生命の底から湧き上がってくるからであり、それを乗り越えるには、自分の「生命」を開き、「南無妙法蓮華経」の力と一体となって、湧き上がる恐怖という(-)のエネルギーを、自分の「生命」の中にある歓びという(+)のエネルギーの大海に溶かしこむことによって、解決できるのである。答えというものは、自分の「生命」がそうなんだと納得している時ほど、確かな答えはないのではなかろうか。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この記事のトラックバックURL: