So-net無料ブログ作成
検索選択

みずみずしく

“先臨終の事を習うて後に他事を習うべし”  (P1404)
 この御書の前に立つ時、一番先に考えるのは、臨終という言葉である。国語辞典によるとその意味は、(1)息を引き取るまぎわ、(2)死ぬこととある。(2)の意味のなかで、加えて生物という範囲で捉えると、生物の死ということになる。その死という姿や意味から逃げずに見つめることによって、対岸にある生を見つめその意味が浮かび上がってくる。この生と死を見つめる事によって、人は自分の生ある間の生き方を構築しようとするであろうし、また自分の生を見つめる時は、周りの生を見つめようとするであろうし、さらに歩を進めて目に映る生死だけでなく、「生命」の不思議に視点を広げようとするだろう。と同時に、それは、物事の存在に関連して視点が広がっていくのである。
 次に、(1)の意味の中で、加えて「南無妙法蓮華経」の骨髄である一生成仏の考えを合わせて捉えていく時、臨終の中に、死という形だけでなく別の姿を見ることができる。それは、終焉と誕生である。終わるという瞬間は、同時に次のものが生まれる瞬間でもある。では、何が終わり何が始まるのか。それは、自分の周りの死の姿から死というものを描き出しているそれまでの自分から、仏界を開き十界があらわれる世界に身をおいて、単に現象の生死のみにとらわれない大宇宙を貫く生死の姿を感じて生きる瞬間が始まるのである。仏教で述べる九界の世界にとどまっている時と、仏界を開き十界があらわれた世界では、全てのものが様変わりする。周りの木や花や草などは、私の生命に語りかけてその息吹はみずみずしく、はじけている。側に建つ家や塀や電柱なども、踊るようにして語りかける。時は、一時間とか一日とかの長さより、今という瞬間をより強く感じるようになり、感極まった時は、瞬間の時の中に永遠という思いが突き抜けていく。大安心の世界に身を置くようになり、それは人間が誕生するとき母の体内にいるような感覚である。戸田先生は、仏界を開いた時の幸福感を絶対的幸福とおっしゃた。私は、それを相対か絶対かという範疇のものではなく、大宇宙の生命体にとけ込み、大宇宙の生命体の胎内で包み込まれている大安心感の下に訪れる幸福感として感じている。これが成仏の姿であるかどうかは、私はわからないけれど、今言い表していることが、間違いだとしたら、後日師のもとに進んだ時、日蓮大聖人のお叱りをうけるのみである。
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0