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主題

 御書は1600ページに及ぶ書物である。その膨大な言葉の1つ1つは何を表そうと述べられているのか。それは、「南無妙法蓮華経」についてである。すなわち、「南無妙法蓮華経」とはで始まり、「南無妙法蓮華経」とはで終わるのである。この七文字が、全てを表すのである。例えば、日本という二文字に過去、現在、未来の時間を軸とし、その中に存在する人や物やあらゆる事象等が含まれる。今日の誰々の朝ごはんは何と何などと1つ1つ取り上げようとしたら、あげ切らない時間的、空間的広がりを持つ。日本という二文字の広がりを思いながら「南無妙法蓮華経」の七文字を思うと、もはや思考上の広さを思うことができない。只広いと感ずるのみである。その広さの「南無妙法蓮華経」に飛び込んで自分なりの答えを出すのが、その人の人生であるように思う。


触れる

 御書は人に与えられたものが基本である。
 大聖人のもとに届いた手紙やもたらされた情報に対し、相手方に与えられたものである。そのため性格上、具体的事案が横たわっている。例えば、病気になっているとか、苦境に陥っているとか。その具体的状況を踏まえつつ、その文章の中に、普遍性の真理が内在する。このために単に言葉や文章の表面上の意味にとらわれないで、゛末法万年尽未来際”という時を照らし行く真理に触れようとするのが、御書を手にするときの心得だろうと自覚する。

意見と批判

意見と批判の違いはどこにあるのでしょうか。
 先ず立場の点から見てみると、組織の中にいてその人の行為に言及する時に、批判と受け取られがちにあり、組織の外にいる人が同じことを言った時、意見として受け取られる部分が広くなる傾向がある。次に受け取る側の心の状態からみてみると、自分がしていることに対して、心に誇りと傲りがどれくらい強いかが、意見となるか批判となるかに分かれるのではないのでしょうか。さらに存在の有無という点からみると、そういう考えもあるのかと認めるときは、意見として受け取るけれど、その考えを否定しようとするときは批判となる。
 釈尊は、法華経の重要な法理として、「一念三千」を明かした。それは、1つの物体、1つの事象に三千の顔を持つことである。あるいは、三千の意味を持つことであり、+(プラス)から-(マイナス)のエネルギーという点で考えると、その中に三千の段階が存在することである。自分にとって都合がよいかどうかに関係なく、あるいは、自分に見えているかどうかに関係なく、それは存在する。故に、少なくとも「南無妙法蓮華経」を信じる者として、この「一念三千」を深く心に止め、自分にとって都合がよいかどうかに関係なく、その存在を見つめていく境涯を確立していきたい。

「生命」の叫び

仏とは悦びの大河なり

唱題

゛困ったことがあったらいつでも題目をあげるのよ。”
゛いい時も悪い時も題目を唱えるのよ。”
と、創価の母たちは毎日毎日世界のどこかで誰かを励ましている。この「題目を唱える」ということを、私は初めて題目を唱えた時からずっと考え続けている。戸田先生は、「信は理を求め、理は信を深める。」と教えてくださっている。御書は、万物の法則を遍く表しているのであるから、それを求めていくのは、「南無妙法蓮華経」を信ずる者の自然の姿である。単に゛祈ればかなうのよ。”と総括的に、暗黙の了解みたいに納得するのではなく、その中にどうしてかなうのかというしっかりした法則を探し求めていく過程で「信」はより深くなっていく。信じるという行為は、他人から与えられるものではなく、あくまでも自分の己心の作業であり、常に己心を広げゆく作業である。
 さて、少し横道にそれてしまったので本題に戻します。
 もし、゛どこで題目を唱えるのですか。”と尋ねるのは、奇妙なことでしょうか。゛願い事をかなえたかったら、題目百万遍よ。”と年配の婦人から教えていただいた。毎朝する勤行では、声を出して唱えます。ですから声を出して題目をあげるのが、「唱える」ことであるというのが、当たり前のことかもしれません。しかし、御書に触れていくに従ってその他にも意味することがあると気づきました。「声」で唱えることの他に、「身体」で唱える、「心」で唱えるということです。「南無妙法蓮華経」を信じる者は、自他共の幸福を願い、縁する人たちに語りかけます。会うために、あの地この地に出かけます。草創の父母たちは、いくつの靴をすり減らしたことでしょう。その行動は、まさに「身体」で唱えるということを、表しているのではないでしょうか。そして、自他共の幸福への願いは、「心」で題目を唱えるからこそ、生まれてくるのではないでしょうか。さらに歩を進めると、日蓮大聖人が最も訴えてやまないのは、「生命」で唱えることであると考えられます。これこそが、初めて声を出して題目を唱えたものが、目指す目標なのです。これを、仏法では「成仏」と教えてくださっています。

言葉

1つの言葉、1つの文は、広がりを内に持つ。言葉の中にある広さが最も広いのは、「仏」と呼ばれる人の発した言葉である。中でも御本仏日蓮大聖人の表した言葉は、時空の広さを超え、更に時空の形に現れない世界をも表している。そのため、御書を読み、理解しようとする時、人間の「知」をもってなす行為は、その1部の世界に触れたにすぎないことを心得る必要がある。天才と呼ばれる大学者であっても同様である。何故なら、それはまるで大海の水を小さなグラスで量るようなものだからである。また、身読や心で読もうとする行為も然りである。只、「生命」で読み、触れようとする時に、最も近づくことができる。それは、「知」をもって理解するようなものではなく、大聖人の「生命」と自分の「生命」が共鳴するという形で知ることができる。静かな水面に1個の石を投げ入れたとき、水の輪が四方に広がるように、御書の1文が身体の中に入ってきた時、1瞬にして「生命」が悦びで塗り替えられ、そのエネルギーが外にとき放たれるのである。その後に、「生命」の中に埋もれていた意味が浮かび上がり、その時初めてその言葉のもつ意味を全身で知り得るのである。知って後、その知り得た事で、再び悦びが湧きあがるのである。戸田先生が、獄中にて白文の法華経を読み、「仏とは生命なり」と悟達するシーンは、まさにこのことを表している。

初めに

創価学会第2代会長戸田城聖氏の発願を受け、堀日亨氏の編纂によって誕生した「日蓮大聖人御書全集」は、単に宗教という中で語られるものではなく、この大宇宙を貫く法則をはじめ、その全てを言い表しているのである。すなわち、既に、今、これから書き表される書物の全てが、この一冊の中に収められるのである。全ての学問は、この一冊から始まり、最後はこの一冊の中に戻ってくる。それは、これから先、多くの大学者がそのことを証明していくであろう。今、一凡人である私のなすべき事は、法華経の重要な教理である「一念三千」に照らして述べるなら、三千の光を放つ御書のその一部に触れて文字にすることである。

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