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流れ

仏教が興隆するときの流れは、その時代の問題に光を当て答えを出して、次に目に見えない仏界について表し、時代を潤していく。釈迦は、先ず華厳経等を42年間説き、そして72歳から8年間法華経を説いて2000年の間世界を潤した。末法に入り、御本仏日蓮大聖人が出現し、円教としての仏法を明らかにしてくださった。しかし、その言葉は平易であるにもかかわらず、その言葉の表す空間があまりにも広いため、その言葉が光を放つためには、700年の時を要した。今、創価3代の会長によって、「南無妙法蓮華経」は全世界で光を放つ時を迎えている。戸田先生が刑務所から出所し、75万世帯の願業をかかげ、その後、池田先生がその翼を世界へと広げていく時、多くの父母が流した汗が大地に染みていった時間は、弱者が見事な蘇生劇を演じた時代である。すなわち、お金に苦しむ貧乏人、病人、家庭不和、戦争の傷跡深い人々等が主役である。そして今、「南無妙法蓮華経」が現実の世界の人々の苦悩に希望を与え、蘇生していく時代から、さらに広がりを広げ行く時代へと歩を進める時を迎えている。現実の世界は、九界があらわれている世界であり、形の世界である。形の世界は、形のない世界に存在する。御書(生死一大事血脈抄)において、〝水魚の思を成して”
の言葉にそのことを知る。この形のない世界の扉を開ける必要がある。今、創価の運動はこれから100年200年世界を潤すことはできるけれど、1000年万年光を放つことは難しい。日蓮大聖人の直弟子である日興上人を祖とする日蓮正宗の700年後の今日の姿を私たちは目にしている。

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驚き

ブログを始めて1ヶ月あまり。その間にアクセスされた数は約500.この数字は、私にとっては驚きの数字です。さらに驚いているのは、その中に何度もアクセスしてくださる方がいることです。本当に驚いていると同時に、嬉しく思っています。なぜ、私がこのように驚いているかというと、そもそも私のブログは、多くの人に読んでもらいたいという思いから、始めたわけではないからです。(これは、ブログを書いていらっしゃる方に対し、失礼なのかもしれません)私は、これまで自分は64歳の年から、この御書について、中でも仏界について触れる文章を書き始め、それを1冊の本にして残しておくことになるだろうと思っていました。それがあることがきっかけでブログというのを知り、1冊の本をなすための、メモがわり、原稿がわりという性格を強く意識しました。さらにもう1つの理由は、上京しているがゆえにいつでも会って話すことができない娘に対し、語る方法としてブログを利用することにしました。語る相手は娘、主題は「南無妙法蓮華経」と思って始めたブログが、今公開という形をとっているために予期せぬことが生まれて、その時々の思いを日記風に書くということが新たに加わるようになりました。それでも、私のブログの基本は、「南無妙法蓮華経」の原理、法則をかきむしるように明らかにして、文字に書き表していこうと思います。



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娘の意志

私は子供達が小さかった時、「南無妙法蓮華経」に出合い創価学会に入会した。そしてよく家族で座談会などの会合に子供を連れて参加していた。その子供達が大きくなると、「南無妙法蓮華経」に向き合っていく者と離れていく者とに分かれた。その離れていった娘に最近言われた。〝お父さん、私創価学会に入会しているの。”、〝うん、しているよ。”、〝いつから、”、〝お前が子供の時から。よく座談会に一緒に行っていたじゃないか。”、〝お父さん、私が子供で何もわからないときに本人の意志に関係なく入会しているのは問題だから、とりけして。”
「南無妙法蓮華経」の素晴らしさを知るものとしては、今は離れている状態でもいつか向き合う時が来るだろうと思い、そのままにしていたのであるが、道理としてはなるほど娘の言うことが正しいと思い、娘の意志を尊重することにした。そして入会の有無に関係なく、娘も大きくなり社会人として自分の足で歩きだしているのであるから、人生をより良く生きていくうえでどうして「南無妙法蓮華経」が必要とされるのかを語りかけたいと思う。

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飛び込む

先日、御書を読むとき、あるいは触れるとき、自己の知に頼らないで、全身全霊余力を残さないで飛び込まないと、答えを得ることができないと言いました。それを少し詳しく考えたいと思います。御書に触れるとき、しなければならない作業があります。第1に、一字の言葉の意味を見つけることです。と同時に、その言葉を含む文の意味も見つけなければなりません。第2に、一字の言葉、一文の答えは、十界の中にそれぞれ存在します。第3に、加えて仏法は人、法の2法を有しますので、この2法の立場で答えを見つけようとしなければなりません。例えば「南無妙法蓮華経」の「南無」について御義口伝の冒頭で教えてくださっているのですが、その中で〝帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり”とあります。この一文に触れようとする時、先ず〝帰する”とはに対する答えを求めると同時に〝迹門不変真如の理に帰するなり”の答えを求めることです。仏の表す言葉は、1つの言葉でもその広さは限りありません。それは、何も描かれていない真っ白な巨大なキャンパスのようなものです。とらえどころがありません。ですから、それに自分の答えという色で形を描いていかなければなりません。次にこの〝帰する”という言葉、〝迹門不変真如の理に帰するなり”の答えは、十界、つまり地獄界から仏界の10の立場の答えがあるということです。地獄界にいる時はどういうことなのか、人界にいる時はどういうことなのかそれぞれに答えがあるのです。加えて仏法は、人、法の2法でこの大宇宙の法則をとらえます。ですから、それは人としてどうなのか、人を含めた大宇宙においてはどうなのか、さらに「南無妙法蓮華経」においてはどうなのかという問いが加わります。この様な作業に必要なエネルギーは、一凡人の私には膨大なものです。そのため、余力を残さないで飛び込まないと、その1つの答えも見い出すこともできません。

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軽やかに

「南無妙法蓮華経」を信じる者は、信行学の行の1つとして勤行を行っている。釈尊の方便品、自我偈を唱え、題目を唱える。座談会その他の会合でよく思うのですが、婦人ではなく、男性の方特に幹部の行う勤行の時、不思議に思うことがある。それは、方便品、自我偈をはじめ題目を押しつぶしたように、あるいはすりつぶしたように唱えることである。釈尊の法華経は、一字一文歓喜に溢れている。そのため、境涯が進めば進むほど、広くなればなるほど、歌を歌うように、小鳥がさえずるように、大海の波がはじけるように、軽やかにみずみずしく唱えるようになると思うのである。池田先生は、゛白馬が天空をかけるように”とおっしゃている。それが、あのように多くの男性幹部の方がすりつぶしたように唱えるのはどうしてだろうか。

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