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冬と春

 “法華経を信じる人は冬のごとし冬は必ず春となる”(P1253)

 この御文に触れるとき、最初に前文の“法華経を信じる人は冬のごとし”に触れ、次に後文の“冬は必ず春となる”に触れてみたいと思います。
 前文を表面上の意味からたどっていくと、法華経を信じる人には冬のような厳しい苦難が訪れるのではないかと誤解されてしまいます。人間はその人生の中で、時に冬のごとき苦難を迎えます。どうしてそのような苦難を迎えるのかという問いを発する時、私はその答えを、釈尊の法華経・日蓮大聖人の南無妙法蓮華経に見出します。釈尊の法華経の 自我偈の最後に“毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就佛身”とあります。これは、仏が常に人間が自分と同じように仏にならんことを念じていると述べられているのです。この法華経の仏の心は、(法華経には人・法という2法を有するため)同時に“人々を仏にせん”という法の意志をもあらわしているのです。つまり、この大宇宙を貫く法の意志は、人間に対して全ての人を仏にせんという力が働いているのですが、そのことを人間は忘れているため、人々を驚愕せんと苦難を用意しているのです。海の上の波が穏やかな時は、舟の中の人の心も穏やかであるけれど、同時に時の流れに流される惰性も進行していきます。しかし、一旦海が荒れたときは、人は自分の持っている力を最大限発揮して、その苦難に立ち向かいます。苦難・苦悩がなければ、人は人生の意味や生死の問題等を見つめ、大地にしっかり足を踏みしめて歩こうとしません。そしてその答えを捜すために、最後に法華経の門の前にたどり着くのです。ここに、苦難はただ人々を苦しめるために存在するのではなく、人間が仏と開くために、最も幸せな状態になるために“成仏とは”“幸せとは”を考えるために存在するという意味を持つのです。
 次に、後文の“冬は必ず春となる”について触れてみたいと思います。この御文に触れるとき、大事な点が2つあります。1つは、この御文の前に(法華経を信じる人は)の文が存在することであり、もう1つは文中に“必ず”という言葉が存在することです。これは、もし法華経に会わないで法華経を信じない人は、「冬は春となる」という法則は成り立たないということを、意味します。これを現実の社会に照らしてみると、冬ととらえる苦難・苦悩に出会ったとき、それを乗り越えて幸せになる人もいるけれども、乗り越えられずに失意の人生を歩む人もいます。冬が春になるかどうかは、不透明であり、乗り越えられるかどうかは、努力・才能・運・誠実さ等があげられ、乗り越えられたときは、それらが良いと言い、乗り越えられなかったときは、それらが悪いとあきらめる。そのような中で、日蓮大聖人は“必ず”とおっしゃっておられる。しかしそれは、「法華経」を信じる前提が必要なのであり、法華経を信じたときは、100人いれば100人が必ず春を迎えるとおっしゃているのです。これを例えをもって考えると、船が航海する時、潮の流れに乗って潮の流れの進む方向に進むと、安心感をもって進むことができるけれど、潮の流れに逆らって進もうとしたら、大きな力を費やし、時にそこからはじき出されてしまいます。その海の潮の流れに例えられるものが、この大宇宙に存在するのです。そのため、全てのものは、宇宙の根本を貫く法の力・法の意志から逃れられません。日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経」に賛する者は幸福になり、それに逆らう者は不幸に沈むとおっしゃっています。そして、その「南無妙法蓮華経」の力は、例え「南無妙法蓮華経」を信じない人であっても、「南無妙法蓮華経」を信じて行動している人を見て喜ばしい事だと思ったり、「南無妙法蓮華経」が国中に広がることを望んだりしただけでも、その力の功徳を得ると述べられています。
 以上のことをまとめてみますと、苦難は人間が幸福になるために用意されたものであり、それは法華経(南無妙法蓮華経)を信じることによって乗り越えられると断言しておられるのです。

「夢」と「寤」

御書並びに釈尊の一代聖教に触れるのに、必ずその基礎となる重要な御書の1つである「三世諸仏総勘文教相廃立」を去年の暮れから読み返している。その御書の中の「夢」と「寤」について触れてみたい。この「夢」と「寤」の対象である世界はどういうものか。
 「夢」と言っている世界は、私たちが存在しているこの現実の世界であり、さらに詳しく言うと「南無妙法蓮華経」で己心の仏界が開かれていない九界の世界を言っている。「寤」とは、その己心の仏界が開かれて十界互具している現実の世界を言っている。即ち、同じ現実の世界に存在している状態でも、仏界が開かれているかいないかによって「夢」と「寤」に分かれるのである。
 では、何故この現実の世界が「夢」と「寤」にわかれるのであるのか。人間は、誕生してから心身ともに成長していく中で、多くの少年少女が思春期を迎えるとき、心の葛藤期を迎える。それまで身につけてきたものが、自分の未来へと歩みを進める上で、盤石の礎とならず、言いようのない大きな不安が心を占めて、苦悩という泉に沈んでいく。ある者は、意識的にせよ無意識的にせよその心の不安に蓋をして、その後の人生を歩み、またある者はその苦悩を真っすぐに見つめ、答えを出せずにその後の人生に幕を降ろしてしまう。多くの人間は、その後の人生を歩むのであるが、それは海の波の上に細い板を浮かべてその上を歩いているようなものである。時にその波が激しく波立つ時、何かすがりつく物を探して、まさに「藁にも縋る」心境で、すがみつく。この時、最も大事なのは、何にすがみついたかである。なぜならこの時、その後の幸・不幸の分かれ道が、ここから始まるからである。ほとんどの哲学・倫理・宗教は、この時間と空間の大宇宙の広さより狭い空間を右往左往していて、その法則や道理は粗雑さが目立ち、この大宇宙の法則や現象、人間の人生の意味など重要な問題を説明し尽していない。何かにすがって一旦はほっとするけれど、その狭さよりあちらこちらで矛盾が生まれ綻びを見せるため、宗教の遍歴が始まる。或いは、無理に自分を変えてその空間の中に押し込めてしまう。もし、すがみつくとしたら日蓮大聖人が説く「南無妙法蓮華経」只1つである。その広さは、この大宇宙を入れてもなお広く、全てにその答えを提示してくれる。波の上に浮かぶ板を歩いている私たちに、波は海というものの1部であり、波の下の海という存在を教えてくれる。その海の中を、己心の仏界を開くことによって一点の曇りなく見通すことができ、波の上をまるで大地を歩くように、大安心感をもって直接歩くようになる。この大安心感をもって波の上を歩いている状態を「寤」といい、波の下の海の存在を知らずして、その上を右往左往しているのを「夢」と言っておられる。そして、ここで最も大事なのは、この仏界を開くという行為は、あくまで個々の人間によってなされるものであり、誰か他人(例えば仏と呼ばれる人によってさえも)が開いてくれるものではないのである。個々の人間が自身の行為として、己心の仏界を開いた時に、初めてこの大安心感を持つのである。