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発する

私は、最近世にいう五十肩という症状を発病した。日常的に肩や腕に痛みを覚え、腕は肩から上がらず、少しでも脇から後ろにそらそうとすると激痛が走る。何かの拍子に急に脇にあるものを取ろうとする時の痛みには、うずくまって涙をこらえる程である。病院の医師によると、日常生活において限られた動作しかしなくなると、次第に関節や筋肉等は固まってくるという。そのため、この五十肩を治すには、薬の服用ではなく、狭くなってきた動作域を広げる運動で解決するしかないと言われた。このことを踏まえて、私はこれまでの事を振り返ってみた。私は、自分の仕事上身体を動かす運動量は、他の職業の同年代の人たちに比べて、はるかに多いと思っていた。そのため、よく周りの人たちが運動不足と言っているのを、自分は関係ないと思っていた。しかし、それは狭い料簡であったと反省している。確かに、運動量としては多かったかもしれないが、それは狭い範囲の限られた運動であったために、逆にその障害として今体に表れてきたのを自覚している。そして、反省と同時に、これまで体の障害に対して、いろいろな人が大事なことを教えてくれていたのを思い出した。子供をスポーツクラブに連れて行った時、そのクラブのコーチは、練習した後には必ず練習中の動作の逆のストレッチをすることを、よく指導していた。その理由は、先の医師の道理と同じく、そのスポーツにはそのスポーツ独自の動作に限られてくるために、その動作と逆のストレッチで筋肉等の回復をはかっておかないと固定化して、ケガをする確率が高くなるという。さらに遡って思い出したのは、若い頃アメリカに留学した時、大学の敷地内にある屋内プールで、よく泳いだことである。それは、その大学のスポーツトレーナーの話しを聞いた後に、環境的にそのプールは一日中一般の学生のために無料で解放されていたからである。そのトレーナーによると、ケガの回復時に限らず、スポーツ選手でも、一般の人の日常的な体のリハビリにおいても、最も適した運動は、水泳であるという。水に浮いて泳ぐときに、人間のなす運動において最もバランスよく、全身を使った運動ができると教えていただいた。しかし、帰国後仕事に就いてからは、若さと仕事を理由に、自分の体への過信の上に人生を過ごしてきた。今体の不調を感じる時、御書にまた1つ教えられる。全てのものに道理や法則があり、物事はそれを基盤として進むのである。新しい事を始める時、物事を広げようとする時は、多大なエネルギーを要し、時に苦痛を伴う。それが1つのパターンとして、形が出来上がってきたとき、楽になり、多くはそこに安住しだす。それは楽であり、快・不快でいうと快の状態であるためである。しかし、その裏では同時に、エネルギーの縮小という自然の力が働きだす。縮小するという力に対抗するには、広げるというエネルギーを発し続けなければならない。「仏」と「魔」を自然界に見る時、「仏」は広げるというエネルギーの(+)の力を表し、「魔」は縮小するというエネルギーの(-)の力を表していると思う。生きるという事は、生命というエネルギーを発し続けることなのであろう。

見つめる

人間が人間たる所以は、思考することにあると思う。その思考の最大のテーマは、「生死」である。その「生死」の課題の中でも、最初にくるのが「死」についてである。この課題を、人間は普段自分の思考の世界の遥か彼方に追いやっている。なぜなら、この課題を見つめる時は、同時にその恐怖を味わうからである。幼少の時から、私は何度となくこの課題を見つめては,その恐怖に打ちのめされてきた。迫りくる恐怖とは、現象としてのものはたいして問題ではない。例えば、病気で亡くなるとか、事故で亡くなる、あるいは自ら命を絶つなどは、頭の中で描かれるものであるから、若い時ほど、その重さは深刻に迫ってこない。しかし、自分が亡くなった瞬間から、自分という存在がこの世界からなくなること、そしてそれ以降、自分が存在しないという時間が永遠に続いていくということを見つめたとき、体の底から恐怖が沸き上がり、私を奈落の底に引きずり込むのである。その都度、その恐怖を乗り越えるために、確固たる答えを求めるのであるけれど、哲学にも倫理学にも巷の宗教にもその答えはなく、最後に釈尊の「法華経」、日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」にたどり着いたのである。たどり着いて始まった思考は、それまでの終わりとしての「死」の対岸にあった始まりとしての「生」であった。つまり、「生死」のテーマを見つめる時は、単に人間としての形の生死ではなく、自分が人間として誕生する前の時間、人間として始まる誕生から終わりとしての死、そしてその後に続く時間と一連の流れを貫く全体像に対して、納得のいく答えを求める時なのである。釈尊の「法華経」、日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」はこのテーマに対して、遍く「生命」の全体像をを描き出してくれている。そして、最も肝心なことは、その答えをどのような形で納得するかを教えてくださっている。どんなにその答えが正論でも思考の世界にとどまっている時は、湧き上がる死の恐怖からは乗り越えられない。それは、生命の底から湧き上がってくるからであり、それを乗り越えるには、自分の「生命」を開き、「南無妙法蓮華経」の力と一体となって、湧き上がる恐怖という(-)のエネルギーを、自分の「生命」の中にある歓びという(+)のエネルギーの大海に溶かしこむことによって、解決できるのである。答えというものは、自分の「生命」がそうなんだと納得している時ほど、確かな答えはないのではなかろうか。