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習う

“先臨終の事を習うて後に他事を習うべし”  (P1404)

 先日上記の文に触れたとき、文の前の“臨終”について考えを述べました。今日は後半にある“他事を習う”について述べたいと思います。最近、テレビ番組で「東京タラレバ娘」というドラマがあります。内容はわからないけれど、この題名からあることを想像しました。それは、「タラレバ人生」と「カラノハ人生」という事についてです。前者は、“もし~していタラ、こうなっていたのに”とか“もし~していレバ、こうならずにすんだのに”という考え方です。後者は、“~していたカラ、こうなったんだ”とか“~したノハ、こういう訳があるんだ”という考え方です。この両者をいくつかの視点から比較してどういう特徴があるか考えてみました。
 初めに、心の動きという観点から考えてみました。前者の「タラレバ人生」は、後悔という心の作用であり、やがて愚痴が始まります。或いは、周りを恨み、さらに周りの人たちに嫉妬する。後者の「カラノハ人生」には、“~していたカラ、こうなったんだ”という現実を直視する心の働きがあります。その因果関係をしっかり見つめ、原因と結果の間にある法則やシステムのルールに考えを及ぼし、事実を知ろうと心をくだきます。前者は、感情が多くを占め、後者は、思考が重きをおいています。この思考から反省という形が生まれ、さらに反省からは“次はこうしよう”という新たな一歩を生みます。つまり、事実を見つめることによって、(+)の方向にも(-)の方向にもその因果関係を知り、(時に反省をして)未来への一歩を踏み出すのです。これを水の流れという中で心のあり方をみてみると、前者はいろいろな方向から流れてくる水が一か所に留まってしまう感じです。後者は、水が流れ続けるように、サイクルを描きながら心が流れていきます。水は、一か所に留まるとやがてよどんでしまい、流れ続ける時は、きれいでみずみずしい特徴を表わしていきます。では、この2つの人生のうちどちらを選ぶかというと、人間は前者を選びがちになります。なぜなら、原因と結果を自分の外に求めることの方が楽だからです。後者において、事実に向き合うという事は、時に自分をまな板の上にのせてメスを入れなければなりません。そこには、大きな苦痛を伴います。その生き方には、その苦痛を覚悟してメスを入れる勇気と、その苦痛に耐える忍耐力が必要となります。自分が自分の心や行動にメスを入れる時の苦痛ほど、痛いものはありません。体の痛みは時に休むこともありますが、この苦痛は一瞬も休むことなく、これから逃れることができないからです。しかし、この苦痛の中にこそ次の瞬間の(-)から(+)へと変化していく大いなるよろこびが隠されているのです。まるで女性が子供を産む時、最初に苦痛を味わい、次の瞬間生まれてきた子供への何物にも変えられないよろこびに満たされるように。
 「習う」には、また仏教でいう「悟る」という中には、大いなるよろこびが内包されているのです。
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みずみずしく

“先臨終の事を習うて後に他事を習うべし”  (P1404)
 この御書の前に立つ時、一番先に考えるのは、臨終という言葉である。国語辞典によるとその意味は、(1)息を引き取るまぎわ、(2)死ぬこととある。(2)の意味のなかで、加えて生物という範囲で捉えると、生物の死ということになる。その死という姿や意味から逃げずに見つめることによって、対岸にある生を見つめその意味が浮かび上がってくる。この生と死を見つめる事によって、人は自分の生ある間の生き方を構築しようとするであろうし、また自分の生を見つめる時は、周りの生を見つめようとするであろうし、さらに歩を進めて目に映る生死だけでなく、「生命」の不思議に視点を広げようとするだろう。と同時に、それは、物事の存在に関連して視点が広がっていくのである。
 次に、(1)の意味の中で、加えて「南無妙法蓮華経」の骨髄である一生成仏の考えを合わせて捉えていく時、臨終の中に、死という形だけでなく別の姿を見ることができる。それは、終焉と誕生である。終わるという瞬間は、同時に次のものが生まれる瞬間でもある。では、何が終わり何が始まるのか。それは、自分の周りの死の姿から死というものを描き出しているそれまでの自分から、仏界を開き十界があらわれる世界に身をおいて、単に現象の生死のみにとらわれない大宇宙を貫く生死の姿を感じて生きる瞬間が始まるのである。仏教で述べる九界の世界にとどまっている時と、仏界を開き十界があらわれた世界では、全てのものが様変わりする。周りの木や花や草などは、私の生命に語りかけてその息吹はみずみずしく、はじけている。側に建つ家や塀や電柱なども、踊るようにして語りかける。時は、一時間とか一日とかの長さより、今という瞬間をより強く感じるようになり、感極まった時は、瞬間の時の中に永遠という思いが突き抜けていく。大安心の世界に身を置くようになり、それは人間が誕生するとき母の体内にいるような感覚である。戸田先生は、仏界を開いた時の幸福感を絶対的幸福とおっしゃた。私は、それを相対か絶対かという範疇のものではなく、大宇宙の生命体にとけ込み、大宇宙の生命体の胎内で包み込まれている大安心感の下に訪れる幸福感として感じている。これが成仏の姿であるかどうかは、私はわからないけれど、今言い表していることが、間違いだとしたら、後日師のもとに進んだ時、日蓮大聖人のお叱りをうけるのみである。
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