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とかし・はじける

心の師とは・なるとも心を師とせざれ
                 御書p1088
 この御文について諸先輩方が教えてくださる時、以下の意味で教えてくださいます。
言葉の意味は、「心の師とはなっても、自分の心を師としてはならない」ということです。後半の言葉の「自分の心を師とする」とは、縁によって揺れ動く自分の心に振り回されてしまうことですから、「自分の心を師としてはならない」とは、生まれては消えていく自分の心(ここではマイナスの方向に働く心の意味合いが大きいでしょう)に揺れ動いたり、縛られたりしないようにということでしょう。
 次に、前半の「心の師となる」については、
 1)人々の心の師となる
 2)心を師とするのではなく、法を師とする。すなわち、「ご本尊根本」「御書根本」   
  の生き方をしていく   
   
の意味でお話してくださいます。その時は、確かにそうだなと思うのですが、どこかしっくりこない思いにとらわれてしまいます。それはどうしてかというと、前半の文と後半の文が、それぞれ独立したものという観点からみると、そのように考えられるのですが、一文として貫いて思う時、私は、絶えず生まれては消えていく心にとらわれないようにするということを、表と裏の方向から述べているように思られるのです。つまり、「自分の心を師としないで、その心の師となる」には、どうするのかという意味を投げかけているように感じられます。その答えを見つけようとする時、やはり御書の中に入っていかなくてはなりません。人間が存在する時、身体と心を有します。その心は、十界を背景として生まれてきます。マイナス方向では、怨み・妬み・怒り等が生まれ、プラス方向では、喜び・楽しさ・慈しみ等が生まれてきます。その中で、特にマイナス面の心をどうコントロールするかが、人間にとって最大のテーマの1つです。人々は、道徳心や倫理観、哲学や法律といった外側からコントロールしようとします。しかし、それでは完全にコントロールできないことを、人間の歴史が示しています。なぜならそれは、例えば、川の流れをダムでコントロールしようとする時、確かにダムの容量の範囲内においては可能ですけれど、一旦その容量を超える増水があった時、ダムは決壊してしまうように、心のエネルギーはそれをコントロールしようとする意志の力を超えていくからです。どのような聖人君子でも、さらに仏でも瞬間瞬間に生まれてくる十界の心を外から抑え込むことは不可能ですよと言っています。いやむしろ、抑え込もうとすること自体が不自然だと言っています。それでは、瞬間瞬間に生まれてくる心を外から抑え込まないで、自然に発露させ、なお且つその心をコントロールする方法はというと、「生命」を開くことだと教えてくださいます。「生命」は心よりはるかに広い。その広い「生命」という大海に、心のマイナスのエネルギーはとかしこみ、プラスのエネルギーははじけさせていくのである。そう思う時、「心の師となる」の「なる」は「開」と見て、〝心の師を開き、心を師としないように"と、私は教えて下さっていると思うのです。     

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